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東京地方裁判所 平成元年(行ウ)132号 判決

原告

甲野啓子

右訴訟代理人弁護士

中村光彦

被告

社会保険庁長官

北郷勲夫

右指定代理人

青木正存

外六名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告が原告に対し昭和五八年六月八日付けでした厚生年金保険法による遺族年金を支給しない旨の裁定を取り消す。

第二事案の概要

本件は、厚生年金の被保険者であった者といわゆる重婚的内縁関係にあった原告が、内縁の夫の死亡により、厚生年金保険法に基づく遺族年金を受給できるか否かが争われた事件である。

一厚生年金保険法(昭和六〇年法律第三四号による改正前のもの。以下「法」という。)五八条一項によれば、遺族年金は、死亡した被保険者又は被保険者であった者(以下「被保険者等」という。)が、同項の一号から四号に規定する要件のいずれかに該当する場合に、その者の配偶者等の遺族に支給されることとされている。そして、法五九条一項によれば、遺族年金を受けることができる配偶者は、被保険者等の死亡の当時その者によって生計を維持していたものであり、また、この配偶者には、法三条二項により、婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含むこととされている。

二1  亡乙野太郎(以下「太郎」という。)は、昭和二九年八月一日、厚生年金保険の被保険者資格を取得し、昭和四八年二月二一日に同資格を喪失して、同年三月から老齢年金を受給していた者であるが、昭和五二年八月一七日死亡した(争いがない。)。

2  太郎は、昭和一一年一二月一八日、乙野花子(以下「花子」という。)と婚姻届出をしたが(争いがない。)、昭和二六年から原告と内縁関係を有するに至り、原告は、太郎の死亡に至るまで、同人によってその生計を維持していた(〈証拠〉)。

3  原告は、昭和五七年八月一三日付けで、被告に対し、法に基づく遺族年金の支給裁定を請求をしたところ、被告は、昭和五八年六月八日付けで、太郎と花子との法律婚の実体が破綻し形骸化しているとは断定できない状態であるから、原告は法五九条一項に規定する遺族に該当しないとして、遺族年金を支給しない旨の裁定をした(争いがない。)。

4  原告は、右裁定を不服として、昭和五八年七月二一日、神奈川県社会保険審査官に対して審査請求をしたところ、昭和五九年四月二八日付けで審査請求を棄却する旨の決定を受けたので、さらに、同年五月九日、社会保険審査会に対し再審査請求をしたが、平成元年二月二八日付けで再審査請求を棄却する旨の裁決があり、同年四月一日、右裁決のあったことを知った(争いがない。)。

三本件のように、被保険者等が法律婚関係にあると同時に重ねて事実婚関係(重婚的内縁関係)にあり、事実婚関係にある者が被保険者等によって生計を維持していた場合において、被保険者等が死亡したときに、法律婚関係と事実婚関係とのいずれの関係にあった者を法五九条一項の配偶者と認めるべきかについては、民法が法律婚主義を採用していることに照らすと、原則として、法律婚関係を優先し、法律上の配偶者として戸籍にその旨の記載がある者が同条項の配偶者に該当するが、遺族年金が被保険者等の死亡の場合にその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的として給付されるものであることに鑑みると、法律上の婚姻関係が実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込みのない状態、すなわち、事実上の離婚状態にあるときには、法律婚関係にあった者は、遺族の実質を失って、遺族年金を受けることのできる同項の配偶者に該当しないものとなり、事実婚関係にあった者が、例外的に、同項の配偶者に該当することとなる(これに反する原告の主張は採用しない。)。

四したがって、本件の争点は、太郎と花子との法律婚関係が事実上の離婚状態にあったか否かである。

第三争点に対する判断

一第二の二の2の事実と証拠(〈省略〉)とによれば、次の事実が認められる。

1  太郎(大正元年八月一四日生)は、昭和九年ころ、タクシー運転手として勤務していた勤務先の社宅で花子(明治四五年二月一日生)と同居するようになり、昭和一一年一〇月二七日に長女杏子が出生したのを機に同年一二月一八日婚姻の届出をした。

2  昭和一三年九月に花子の兄が戦死し、残した田畑を引き継がねばならなくなったため、太郎は、タクシー運転手を辞め、花子及び長女とともに千葉県山武郡横芝町の花子の実家(以下「横芝町の家」という。)に転居した。しかし、花子の兄から引き継いだ農地は五〇アール程しかなく、花子一人が農作業に従事すれば十分である上、太郎には農業経験がなかったことから、太郎は、地元のバス会社に運転手として勤務していた。その後、太郎は、出征し、終戦後も、しばらくはバス会社の運転手をしていたが、昭和二一年からは進駐軍に勤務するようになり、当初は、横芝町の家から東京都内の勤務先に通っていたものの、遠距離で通勤が困難であったため、同年中に、家族と別居して東京都葛飾区で単身生活を始めた。太郎は、別居した当初は、一月に三、四回横芝町の家に帰宅していたが、しばらくしてほぼ毎月一回、三ないし四日帰宅滞在するのを習慣とするようになった。この間、太郎と花子との間には、昭和一六年六月に二女浩子が、昭和二一年一二月に三女良子が、昭和二六年三月には四女洋子が出生した。

3  太郎は、昭和二五年に進駐軍の勤務を辞め東京都内で再びタクシー運転手として働いていたところ、昭和二六年に原告(大正一五年一月二五日生)と知り合い、花子と婚姻していることを秘して結婚を申し込んで、同年一二月ころから東京都内で原告と同居するようになった。その後、太郎は、原告から何度も婚姻届を出すよう求められたが、言を左右にして届出をしようとしなかった。昭和二八年に至り、太郎が花子と婚姻していることが原告に発覚したが、太郎は、花子との間の子が大きくなったら、花子と離婚して原告と婚姻するなどと言って、原告をなだめ、その後も、神奈川県川崎市多摩区に住居を移したものの、昭和五二年に死亡するまで原告と同居を続けた。

原告は、太郎との間に昭和二八年一〇月第一子一郎を、昭和三一年七月に第二子春子を、昭和三三年三月には、第三子二郎をもうけ、太郎は、昭和三九年一一月九日に一郎ら三人の子を認知した。

4  花子は、昭和二八年一〇月ころ、太郎が、原告との間にもうけた一郎を戸籍上花子との間の子として届け出るよう頼んだことから、太郎が原告と同居していたことを知ったが、その後も、太郎は、従前どおりほぼ毎月一回、三ないし四日横芝町の家に帰宅滞在していたため、太郎と原告との関係が継続しているとは思っていなかったところ、昭和四一年ころ、四女洋子が高校に入学する際に、戸籍謄本を見て、太郎が原告との間の三人の子を認知していたことを知り、太郎と原告とが同居し続けていることを知った。花子は、そのころも毎月一回程度帰宅していた太郎に対して、原告と別れ横芝町の家に戻って同居するよう何度も求めたが、太郎は、六〇歳になってタクシー会社を退職するまで待ってくれ、原告との間の子が大きくなるまで我慢してくれなどと言って引き延ばし、結局花子との同居を回復することなく死亡した。

5  太郎は、昭和三七年五月には、花子とともに、丙川幸夫を養子とした上、長女杏子と婚姻させ、また、昭和四二年六月には二女浩子の結婚式に、昭和四七年一二月には四女洋子の結婚式にそれぞれ花子とともに出席し、昭和四四年五月の二女浩子の長男の初節句及び昭和四五年一一月の長女杏子の長女の七五三の祝いの折も横芝町の家に帰宅している。このような祝事の時以外にも、昭和五一年四月には、帰宅して、長女杏子の娘と一緒に写真を撮ったりもしたが、最後に帰宅したのは、昭和五二年三月であった。

6  太郎は、昭和四三年七月に肝硬変で神奈川県川崎市多摩区の稲田登戸病院に入院したのを最初に、昭和四五年一二月、昭和四七年三月、昭和四八年五月、昭和五一年一〇月と数回にわたり食道静脈瘤破裂により吐血して同病院に入院し、この間、昭和四八年二月二一日、勤務先の山三自動車交通株式会社を退職し、老齢年金を受給するようになった。

太郎は、昭和五二年五月胃検査のため入院し、結局同年八月一七日胃癌等のため死亡したが、遺体は、原告が引き取り、原告の自宅で通夜を行った。花子は、太郎の入院先の病院の医師から、太郎が危篤になったとの連絡を受け、病院に駆けつけたが、既に太郎は死亡しており、遺体は原告が引き取った後であったため、原告宅で行われた通夜に参列し、焼香した。花子は、原告に太郎の遺体を渡すよう求めて拒絶されたが、養子の幸夫を喪主として、横芝町の家で太郎の葬儀を行い、太郎の墓を建てた。他方、原告も太郎の葬儀を行い、太郎の墓を建てて遺骨を納めた。

7  太郎は、昭和三六年九月に山三自動車交通株式会社に就職するに際し、同社に提出した「入社志望者申告書」及び「身上書」に、家族として妻花子及び花子との間の子を記載し、また、老齢年金を受給する際、その加給年金額の対象者としても花子を配偶者として届け出た。

8  太郎は、花子らと別居後、ほぼ毎月一回横芝町の家に帰宅する際に花子に金員を手渡していた。もっとも、その金額は、一定しておらず、極めて少額のことも多かった。また、太郎が山三自動車交通株式会社を退職し、老齢年金を受給するようになった昭和四八年以降は、花子に金員を渡すことはなくなり、逆に、長女の杏子が病院に面会に行った折などに太郎に小遣いを渡していた。

9  花子は、太郎が原告と長期間にわたり同居し、三人の子までもうけていることを知ってからも、太郎と離婚する意思を持ったことはなく、また、太郎も花子に対して離婚したい旨を述べたことはなかった(なお、太郎は、原告と同居中に、離婚届の用紙に自己の氏名、住所等を記入し、署名押印をして、これを保管していたことが認められるが(〈証拠〉)、太郎が、これを何時、どのような目的で作成したのか明らかでないから、この事実は、右認定を左右するものではない。)。

二以上の事実によると、太郎と花子とは法律上の婚姻関係にあったとはいえ、昭和二一年から太郎が死亡する昭和五二年まで三〇余年にわたり別居生活が継続しており、両者の間に通常の夫婦としての共同生活の実体が備わっていたというには躊躇を感じさせるものがないではない。しかし、もともと太郎と花子が別居を始めたのは、太郎の勤務の都合に基づくものであって、両者の婚姻関係が円滑さを欠いたとか、太郎が原告と同居を始めたとかといった事情によるものではないし、太郎は、花子と別居するようになってからも、昭和四八年にタクシー会社を退職するまでは、原告との同居前もそれ以後も、毎月一回程度帰宅するとともに多額ではないにしても花子に毎月金員を渡しており、また、退職後も死亡の直前の時期を除いては、金員を渡すことはなくなったもののそれまでとほぼ同様に花子のところに帰宅しており、さらに、花子との間の子の結婚式や孫の祝い事には花子とともに出席していたのである。そして、太郎と花子との間において法律上の婚姻関係の解消が話題にあがったことはなかったのであるから、両者の間に婚姻によって形成された生活身分関係は、太郎が原告と同居した以後も含めて太郎の死亡に至るまで、なお維持継続していたものと評価するほかはない。

そうすると、太郎と花子との間の法律上の婚姻関係は、その実体を失って形骸化し、かつ、その状態が固定化して近い将来解消される見込みのない状態、すなわち、事実上の離婚状態に至っていたものとまではいえない。

(裁判長裁判官鈴木康之 裁判官石原直樹 裁判官深山卓也)

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